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東京地方裁判所 昭和60年(ワ)6057号 判決

原告 平澤貞通

右訴訟代理人弁護士 遠藤誠

被告 国

右代表者法務大臣 鈴木省吾

右指定代理人 大藤敏

〈ほか三名〉

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、昭和六〇年五月七日から、被告が原告の身柄を釈放するまで、一日につき金七二〇〇円の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告の身柄拘束の事実

(一) 原告は、いわゆる帝銀事件の被告人として、昭和三〇年四月六日、最高裁判所において上告棄却の裁判を受け、同人に対し死刑を言渡した東京高等裁判所の裁判は、右上告棄却の裁判に対する判決訂正申立の棄却決定を経て、同年五月七日に確定した(刑事訴訟法四一八条)。

(二) 原告は、右同日以降、死刑確定囚として、東京拘置所、宮城刑務所(拘置場)及び仙台拘置支所に各々拘置され、昭和六〇年四月二九日から八王子医療刑務所において拘置され現在に至っている。

2  原告の身柄拘束の違法性

(一) 原告に対する前記死刑の言渡が確定した後、死刑の執行がなされないまま昭和六〇年五月六日を経過したことにより、刑の言渡確定後三〇年の期間を経過したことになる。

(二) そして、刑法三二条の柱書及び一号には、

「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内基執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス

一 死刑ハ三十年」

と規定されている。

(三) したがって、原告に対する死刑の時効は、昭和六〇年五月六日の経過をもって完成し、原告は時効に因り右死刑の執行の免除を得(刑法三一条)たものであるから、同年五月七日以降の原告の身柄拘束は、法律上の根拠を有しない違法なものである。

(四) なお、原告は、確定死刑囚として刑法一一条二項によって前記の如く拘置されてきたものであるが、右の如き場合においても刑法三二条一号の時効の規定が適用され、死刑の言渡確定後三〇年の経過によって時効が完成したと解すべき理由は以下のとおりである。

(1) 刑法三二条にいう「其執行」の意味について

(ア) 刑法三二条は「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」と規定しているところ、「刑ノ言渡ノ執行」という日本語はないから、右にいう「其執行」は、その前に掲げられている「刑」を受けて「刑ノ執行」の意味であると解さざるを得ない。

(イ) そして、刑法に「其執行」という文言が登場するのは、三二条、一一条二項のほかに、①二五条一項、二項、②二六条ノ二第三号、③三一条、④三四条ノ二第一項及び⑤五六条一項、二項など数多く存在するが、そのいずれの場合でも右文言は「刑ノ執行」という意味で用いられており、また、同法の①五条、②二六条、③二六条ノ二、④二六条ノ三、⑤二七条、⑥二九条三号、⑦三四条一項、⑧三四条ノ二第一項及び⑨五一条の各条文においては、「刑ノ執行」又は「刑ヲ執行」という文言は用いられているものの、「刑ノ言渡ノ執行」又は「刑ノ言渡ヲ執行」という文言は用いられていない。

更に、同法二七条と三四条ノ二第二項には、それぞれ一つの条文の中に「刑ノ執行」という文言と「刑ノ言渡」という文言が用いられているが、各々、その二つの文言は峻別されており、「刑ノ言渡ノ執行」という表現は用いられておらず、また、同法五一条但書は「死刑ヲ執行ス」という文言を用い、「死刑ノ言渡ヲ執行ス」という表現は用いていない。

以上のとおり、刑法の条文において「其執行」という文言が用いられている場合には、全て「刑ノ執行」又は「死刑ノ執行」を意味しているのであり、また、刑法の条文において「刑ノ執行」という文言は存するが、「刑ノ言渡ノ執行」という文言は全く存しないのである。

そして、同一法典中の同一語法に対する統一的解釈の原則からすれば、同一文言を、一か所だけ別の意味に解釈するということは絶対に許されるべきことではない。

特に、刑法三二条は、刑の時効の成立要件の規定であり、また同法三四条は刑の時効の中断事由の規定であって、両者はいわば表裏一体の関係に立つ不即不離の規定であるから、同法三四条に「刑ノ執行ニ付キ」という文言が用いられている以上、同法三二条の「其執行」だけを「刑ノ執行」ではなく、「刑ノ言渡ノ執行」の意味であると解釈することは不可能であるといわざるを得ない。

もっとも、一か条だけ別異の解釈をすることによって拘置されている者に有利な解釈をもたらすというのであれば、罪刑法定主義の人権保障的本質からして許されないことではなかろう。しかしながら、統一的解釈を施せば被拘置者に有利になるものを、わざわざ一か条だけ異なる解釈をして被拘置者を不利に処遇しようということは、右の如き罪刑法定主義の本質に照らし、絶対に許されてはならないことである。

(ウ) また、仮に刑法三二条にいう「其執行」が「刑ノ言渡ノ執行」を意味すると仮定しても、結論は異ならない。けだし、同法一一条二項の拘置はあくまで同条項によって創設的に認められた処遇であって「死刑ノ言渡ノ執行」としてなされているものではなく、「死刑ノ言渡ノ執行」とは、あくまで「死刑ノ執行」にほかならないからである。

即ち、同法一一条二項が存在しなければ確定死刑囚を拘置しておくことができないため、明治四〇年の帝国議会はわざわざ同法一一条二項を創設し、「死刑を言い渡した確定裁判の執行」では賄えない拘置に法的根拠を与えたのである。

(エ) ところで、被告の主張するように刑法三二条にいう「其執行」を「刑ノ言渡ノ執行」と解し、この中に、死刑と拘置の双方が含まれると解するならば、結局、死刑の執行と拘置を同一視することになるが、そうすると法務当局は、刑事訴訟法四七五条一項の規定に違反する執行を行ってきたことになる。

即ち、「死刑の執行は、法務大臣の命令による」(刑事訴訟法四七五条一項)とされているところ、歴代の法務大臣は誰もその「拘置」の執行命令書に印を押していないのであるから、法務当局は、執行命令がないのにもかかわらず「死刑の執行と同視すべき執行」を行い、過去三〇年にわたって違法行為を継続してきたことになるわけである。

また、同法四七九条によれば、「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態にあるとき」又は「死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、」「法務大臣の命令によって執行を停止する。」(同条一項・二項)とされているところ、同条には、受刑者の心神喪失により懲役、禁固または拘留の刑の執行が停止されたときに関する刑事訴訟法四八一条一項の如き規定が存しないから、結局、「死刑の執行」が停止されても、「拘置の執行」は停止されないのであって、この点から考えても、拘置の執行と死刑の執行は全く別ものであって同一視することは不可能であるといわざるを得ないのである。

(2) 時効制度の趣旨からの考察

(ア) そもそも、刑の時効制度が定められた所以のものは、①判決の確定後、三〇年も経てば、被害感情も和らぎ、②被告人の処罰を求める社会の感情も和らぎ、③かつまた、三〇年という時の経過によって作り上げられてきた社会的安定性、即ち執行されないことが自然であるとする社会的安定性が形成されている以上、④国家刑罰権は、むしろその消滅を来たすという趣旨にある。

しかして、本件はまさに右の趣旨に適合する事例であり、時効は完成したといわざるを得ないのである。

即ち、第一に、被害者たちは、今や全く原告の処罰を望んでいないのみか、真犯人を目撃した被害者の一人竹内正子さん(旧姓村田さん)は、「犯人は平澤さんではない。」と言って、現在係属中の再審請求事件(東京高裁第一刑事部昭和五六年(お)第一号再審請求事件)の弁護側証人として出廷することを望んでいる。

第二に、原告の処罰を求める社会の感情は、現在和らいでいるのみならず、「平澤貞通を救え。」という世論は、日本国内のみならず、国際的にも年々高まってきている。

第三に、もし近い将来、被告が、原告にたいする死刑執行を断行したとすれば、日本はもちろん、世界中が蜂の巣を突っついたような大騒ぎになることは必至であり、逆にいえば、原告に対し、今後とも死刑執行をしないことが、今や、社会的安定性を得てしまったということになるのである。

(イ) 被告は、「刑の時効制度が設けられた趣旨は、国家の刑罰権が行使されないまま一定の期間が経過することによって、通常、社会において一定の事実上の秩序が形成され、右期間経過後において、なお国家が刑罰権を行使して右の秩序を破壊することはかえって国家社会の利益に反する結果になることから、むしろこれを尊重し国家の刑罰権の行使を許さないとすることにある」という。

しかして、過去三〇年以上の間形成されてきた「事実上の秩序」は、「死刑を執行しなかったという事実」であり、「死刑を執行できなかったという事実」である。

そうすると、右の「事実上の秩序」を今後とも尊重して行くとするならば、被告は今後とも死刑を執行できないことになる。

(ウ) 更にまた、被告のいう「死刑の執行を受けるべき者」という言葉は、当為概念(Sollen)である。

ところが、時効制度というものは、当為概念(Sollen)と事実(Sein)とがくいちがったときに、事実、即ち被告のいう「一定の事実上の秩序」を優先させるところにその本質があるのであるから、時効の成否を論ずるのに当為概念を持ち出すのは、自己矛盾である。

即ち、時効制度の根幹をなす事実上の秩序というものは、法律上の当為の秩序とは、異なるのである。たとえば、死刑の言渡しを受けた者が裁判確定後に逃亡した場合、その者をめぐって形成される社会関係も、国家法秩序の立場から見れば、同人が逮捕されるべき者としているのであり、「死刑の執行を受けるべき者」であることに変わりはないのである。

しかし、それでも死刑の執行を受けることがなかったという事実上の状態・事実上の秩序が形成されており、刑の時効が進行することは、被告も認めている。

そして、そうした事実上の状態・事実上の秩序は、本件の場合も、同様に形成されているのである。

時効の完成を否定し、今後の死刑の執行を認めることは、こうして三〇年間にわたって続いてきたこの事実上の秩序を破壊することになるから、そのような刑罰権の行使は、被告のいう時効制度の趣旨からも、とうてい許されないはずである。

(エ) また、被告は、「刑の時効制度が設けられた趣旨は、国家の刑罰権が行使されないまま一定の期間が経過することによって、通常、社会において一定の事実上の秩序が形成され、右期間経過後においてなお国家が刑罰権を行使して右の秩序を破壊することは、かえって国家社会の利益に反する結果になることから、むしろこれを尊重し国家の刑罰権の行使を許さないとすることにある」と主張する。

即ち、Aという秩序を覆すことによる不利益と、Aという秩序を覆さないことによる不利益とをはかりにかけ、前者が大きい場合には、本来の法規と矛盾するAという事実上の秩序を尊重するのが時効制度の立法趣旨だというのである。

右の主張については、原告としても意見を同じくするところであるが、これを本件に照らしてみるならば、原告に対し時効完成を認めなかった場合の不利益は、時効完成を認めた場合の不利益に比べてはるかに大きいのである。

けだし、本件の場合は、原告に対しては、死の恐怖下での三〇年間にわたる拘禁により、すでに必要十分な程度を超えた応報がなされているというべきであって、さらに加えて原告に対し死をもって臨むということは、応報、社会防衛、いずれの点からいっても無意味かつ不必要な刑の執行にほかならないところ、三〇年の拘禁に加えて死刑を執行することによって九三歳の原告に与える不利益たるや古今未曽有、東西絶無ともいうべき多大なものになるからである。

(オ) 更に、被告は、拘置を死刑の確定裁判の執行ないし国家の刑罰権の発現と解し、そのような意味での「死刑の確定裁判の執行ないし国家の刑罰権の発現がなされている限り、時効の進行の問題が生じない」と主張しているが、この考え方によれば、次の如き不合理が生じる。

即ち、死刑を言い渡した裁判の確定後、逃亡した者を追跡し、捜索し、見つけ出し、逮捕し、監獄に引致することもまた、死刑の確定裁判の執行であり、国家の刑罰権の発現であるといわざるを得ないから、被告の見解に従えば、死刑の確定裁判を受けた後逃亡した者に対しても、死刑の時効は全く進行しないことになってしまう。

結局、被告の見解によれば、刑の時効制度そのものが空文となってしまうのである。

そこで、この点については、左に述べる如く解さねばならない。即ち、そもそも死刑の執行がなされないまま死刑囚が拘置されているのは、確定判決による刑罰権行使の国家意思が宣明された後も、法務大臣がその刑罰権の発動をさし控えたまま熟慮している状態がつづいているからなのであり、換言すれば自動的に死刑という刑罰権を行使するのではなく、死刑の執行は法務大臣の命令による(刑事訴訟法四七五条一項)として、その刑罰権行使(絞首)をさし控えている期間中の死刑囚の処遇が刑法一一条二項の拘置なのであるから、結局、同法一一条二項の拘置がなされている場合でも時効が問題となる死刑執行(絞首)という国家刑罰権の行使ないし死刑の確定裁判の執行については、その不行使という時効の要件が充たされていると解すべきなのである。

(3) 刑の時効の停止との関係

(ア) そもそも刑の時効の停止に関する刑法三三条の立法趣旨は、法律上刑の執行をすることの許されない場合には刑の執行による時効の中断が不可能であることから、その間時効の完成を猶予する必要があるというところにある。

即ち、刑の執行をすることが許されない場合に、刑の時効が停止されるのであり、逆にいえば、刑の執行をすることが許される場合には、刑の時効は停止されないで進行するのである。

したがって、本件の場合、昭和三〇年五月七日から昭和六〇年五月六日までの間、被告はいつでも死刑の執行をすることができたのであるから、まさに死刑の時効が進行する場合に該るのである。

(イ) この点に関し、被告は、「死刑の確定裁判を受けた者につき、絞首及び拘置の執行の双方が停止されれば、その者については法令により当該確定裁判の執行が停止されるものであって、このような場合には刑法三三条の規定が適用される」と述べている。

右にいう「刑法三三条の規定が適用される」ということは死刑の時効が停止するということである。そして、進行していない時効を「停止させる」ということは、論理的に不可能であり、不必要なことであるから、時効が停止するということは、そのときまでは時効が進行していたということである。

即ち、被告の論理をもってすれば、被拘置死刑囚につき、刑事訴訟法四七九条による死刑執行停止命令もなく、また同法四四二条但書、四四八条二項等による拘置の執行停止もない場合には、死刑の時効が進行しているということになる。

しかして原告に対し、昭和三〇年五月七日以後、現在に至るまで、刑事訴訟法四七九条による死刑の執行停止命令がなされたこともなければ、また同法四四二条但書もしくは四四八条二項による拘置の執行停止がなされたこともない。

そうすると、被告の理論からしても、原告については昭和六〇年五月六日には死刑の時効が完成したということになるのである。

(4) 逃亡者との均衡

(ア) 刑の確定後に逃亡した者に対して刑の時効が成立することは異論がないところ、右逃亡者と比較して原告には連日死の恐怖があり、行動の自由を束縛されていたのであって、逃亡者が三〇年で時効の恩恵を享受できるのに比べ、本件をもって、刑の時効が完成していないとみるのは明らかに不公平である。

(イ) この点につき、被告は、「逃亡死刑囚と被拘置死刑囚との間において法的な取扱いに差があることは当然である」と主張する。

しかしながら、その差を論ずるのであれば、むしろ、法に背いて逃亡し、その間自由を享受していた者に対してさえ、刑法が死刑の執行を免除するという恩典を与えているのだから、法に従って三〇年四か月もの間、自由を拘束される苦痛を忍受してきた者に対しては、もちろん、死刑の執行を免除する恩恵を与えなければならないことになるというべきである。

被告の主張を前提とすれば、死刑の時効の制度は、逃亡という法の禁止を破った者にだけ適用され、忠実に法を守った被拘置死刑囚には適用されないという極めて不合理な結論を是認することになる。

(5) 残虐刑の禁止との関係

仮に被告の主張するように、原告に対し刑の時効が完成していないとするならば、本件において、昭和六〇年五月七日以降においても、原告に対する死刑の執行をすることができるということになる。

しかしながら、三〇年もの間、「今日は殺されるかもしれない、今日は殺されるかもしれない」という死の恐怖にさいなまれながら拘禁され、三〇年経過してから本当に殺すという刑は、まさに憲法三六条にいう「残虐な刑罰」に該当し、許されないといわざるを得ない。最高裁判例昭和二三年六月三〇日(刑集二巻七号七七七頁)によれば、「残虐な刑罰とは、不必要な精神的・肉体的苦痛を内容とする人道上残酷とみとめられる刑罰のことを言う」とされており、右の如き刑の執行は、まさにこれに該るものである。

したがって、刑の時効が完成していないとする解釈は憲法に違反する刑の執行を是認することになるものであって、これを採用することは到底許されないものである。

(6) 罪刑法定主義との関係

被告の主張するように、本件において死刑の時効が完成していないと解するならば、原告に対しては、死の恐怖の下の禁錮三〇年のほかに、死刑の執行をすることが可能になってしまう。

しかし、昭和三〇年五月七日の確定判決は、あくまで死刑のみの判決であって、プラス禁錮三〇年などは、その主文のどこにも書いていないのであるから、判決が命じている刑以上の刑の執行が可能となるような解釈は到底とり得ないといわざるを得ない。

(7) 刑の時効の中断との関係

以上(1)ないし(6)で述べたことから明らかなように、本件においては昭和三〇年五月七日から時効が進行を開始したと解すべきであり、更に、以下に述べる如く、時効の中断事由も存しないことは明らかであるから、昭和六〇年五月六日の経過をもって、時効は完成したものである。

(ア) そもそも刑法三四条一項によれば、「時効ハ刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕シタルニ因リテ中断ス」と規定されているところ、同条項にいう「逮捕」とは、通説によれば、「収監状(刑事訴訟法四八五条ないし四八九条)の執行により身体を拘束すること及び呼出に応じて任意に出頭した者を検察官の執行指揮により収監することをいう」と解されている。

ところが、原告にたいしては、いまだかつて、刑事訴訟法四八五条ないし四八九条による収監状も発付されてなければ、また、原告の現在の身柄拘束は、呼出に応じて任意に出頭したのに対し、検察官の執行指揮により収監されたというようなものでも、もちろんない。

したがって、原告に対する刑の時効は、昭和三〇年五月七日以来、現在に至るまで中断することなく、ずっと進行し続けたことになるわけである。

(イ) もっとも刑法一一条二項によれば、「死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ其執行ニ至ルマデ之ヲ監獄ニ拘置ス」とあり、現在、原告の身柄を拘束しているのは、この規定に基づくものと、被告は主張しているが、同法三四条一項に「第一一条第二項ニ依リ拘置セラレタルトキ亦同ジ」という明文の規定がない以上、三四条一項の「刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕」という言葉を拡張解釈して、「刑の時効についての逮捕のなかには、刑法一一条二項の拘置を含む」と解釈することは、憲法三一条が高らかに保障している罪刑法定主義の一内容たる刑法にたいする拡張解釈のきびしい禁止の原則からしても、不可能なことである。

いいかえるならば、刑法三四条一項の中断の規定は、死刑確定囚が刑務所から逃亡した後に逮捕された場合を前提として規定されているものであって、本件のように、起訴前から身柄の拘束が継続している場合には、適用されず、したがって、本件につき、同法同条項の規定をもって、刑の時効が中断しているという解釈は、とうていとりえないものである。

(ウ) 仮に、被告の主張するように、「拘置の行われている間は時効を中断するに足りる事由が存し、時効は常にその進行を妨げられている状態にある」という見解が成り立ち得るとしても、同時にその逆の見解、即ち「拘置されていても死刑の執行を受けない限り時効が進行する」という見解も十分成り立ち得るものである。

そして、一般にいくつかの見解が成り立ち得るときには、実定法が存在する以上、解釈論としては、その条文によって結論を導き出すしかないところ、刑法三四条一項には「時効ハ刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕シタルニ因リテ之ヲ中断ス」とあり、「第一一条二項ニ依リ拘置セラレタルトキ亦同シ」とは記載されていないのである。また、同法三三条には、「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」と規定されているだけであり、同法三二条にも「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」と規定されているだけであって、各々「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シ若クハ一一条二項ニ依リ拘置セラレタル期間内ハ進行セス」とか「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行又ハ一一条二項ニ依ル拘置ノ執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」とは規定されていないのである。

そして、刑法の解釈において元被告人に不利益となるような類推解釈を行うことは憲法三一条違反になると解するのが通説であるから、結局、刑法の解釈としては、「拘置されていても死刑の執行を受けない限り時効が進行する」と解さざるを得ないことになるのである。

3  被告の責任

被告の機関である法務大臣は、昭和六〇年五月七日以降の原告の身柄拘束が、前述の如く違法であることを知りながら、又は調査研究すれば違法であることを容易に知り得るにもかかわらずこの義務を懈怠し、違法であることを看過したまま漫然と違法な身柄拘束を継続したものであるから、被告は国家賠償法一条一項により責任を負う。

4  損害

九三歳という高齢な原告に対し、いつ死刑執行がなされるかわからないという状態の下で、違法に身柄を拘束し続けることによって原告に生じる精神的、肉体的苦痛は筆舌に尽くし難いものがあり、これによる損害は、一日につき金七二〇〇円を下回るものではない。

よって、原告は被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、昭和六〇年五月七日から被告が原告の身柄を釈放する日まで一日につき金七二〇〇円の割合による損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2のうち(一)、(二)の事実は認め、(三)、(四)の主張は争う。

3  同3の主張は争う。

4  同4の事実は否認する。

三  被告の主張

1  被告は、昭和三〇年五月七日以降、死刑を言い渡した確定裁判の執行として原告を拘置してきたものであって、このような場合には刑法三二条の時効の規定の適用はなく、同六〇年五月七日以降の原告の身柄の拘束も、法律上正当な手続に基づくものである。

以下、その理由を述べる。

(一) 刑法三二条にいう「其執行」の意味について

原告は、刑法三二条にいう「其執行」は、「死刑を言い渡した確定裁判の執行」とは解し得ず、「死刑の執行」と解すべきものである旨主張するが、右主張は、次の理由により失当である。

原告は、刑法三二条の「刑ノ言渡確定シタル後……其執行ヲ受ケサルニ因リ……」の文言について、「刑ノ言渡」の執行ということは考えられないので、文理上、「其執行」とは「刑の執行」と解するほかはなく、また、「其執行」を「刑を言い渡した確定裁判の執行」と解することは類推解釈ないし拡張解釈であって許されない旨主張する。

しかしながら、同条の「刑ノ言渡」が「刑を言い渡した裁判」を指称するものであることは、① 同条において「刑ノ言渡確定シタル後」と規定されているところ、本来、確定するとは裁判についていうものであること、② 現行刑法の立案者も、同条の「言渡」とは裁判と同義であるとしながらも、「刑ノ裁判」という用語の使用例がないことから「刑ノ言渡」という表現を採用したにすぎないと認められること、③ 同法の他の条文においても、「言渡」が単なる裁判宣告の動作又は行為を表すものでなく、言い渡された裁判の意義で用いられていると認められる例が多いこと(例えば、刑法二六条の「刑ノ執行猶予ノ言渡ノ取消」、二七条の「刑ノ言渡ハ其効力ヲ失フ」、三四条ノ二第二項の「其言渡確定」等における「言渡」)等からして明らかである。

したがって、刑法三二条の「其執行」を「刑を言い渡した確定裁判の執行」と解することは文理上何ら不合理でないばかりか、「刑ノ言渡」が一個の名詞句をなすものであることからみると、文脈等から別異に解すべき理由のない限り、「其執行」の「其」は右名詞句そのものを受けているものと解するのが素直であり、それが立案者の意図にも合致するものと認められる。

因みに、刑法一一条二項にいう「其執行」が死刑の執行そのものと解すべきであることは原告主張のとおりであるが、それは、同条がその一項において死刑の執行方法を定めた上、同条二項がこれを受けてその執行が行われるまでの措置として死刑確定者を監獄内に拘置することを定めたという同条の構成と同条各項の趣旨、目的によるものであって、同条において「其執行」を右のように解すべきであるからといって、同法三二条においても必ず同一に解釈しなければならないものではない。

そして、同法三二条の「其執行」を前記のように解釈することが時効制度の趣旨からして実質的にも正当であることは、次の(二)で述べるとおりである。

右の解釈は、正に正当な文理解釈であって、原告の主張するような類推解釈でも拡張解釈でもないことは明白である。

(二) 時効制度の趣旨からの考察

刑の時効は、刑を言い渡した裁判の確定により具体化された国家の刑罰権が一定期間行使されない場合に、その行使を許さないとする制度である。

ところで、死刑の確定裁判を受けた者に対する刑法一一条二項の拘置は、当該確定裁判に基づく身体の拘束であり、「死刑を言い渡した確定裁判の執行」の内容には、死刑の執行である絞首のみならず、右の拘置が含まれるものであって、拘置が行われている以上、「死刑の確定裁判の執行」が行われているものにほかならない。しかして、右拘置は、前述のとおり、死刑の確定裁判に基づいて行われるものであるから、それ自体国家の刑罰権の発現であり、したがって、拘置が行われている以上、その状態は、死刑を言い渡した裁判の確定により具体化された国家の刑罰権自体が現に行使されている状態にほかならず、国家の刑罰権の不行使を要件とする刑の時効制度との関係においては、自由刑の裁判につき当該刑の執行が行われている間は時効の進行の問題が生じないとされるのと全く同じ状態である。この意味において、拘置が行われている以上、刑の時効の進行を論じる余地はない。

刑法三二条は、自由刑の執行がなされている場合を含め、およそ確定裁判により具体化された国家の刑罰権の行使がなされている場合には、そもそも適用がないものであり、同条にいう「其執行ヲ受ケサルニ因リ」とは、「刑を言い渡した確定裁判の執行を受けないことにより」と解すべきである。

なお、原告は、単に絞首がなされないという一事のみをもって時効が完成するというが、これは、既に確定裁判の執行として拘置がなされている事実を無視するものであって、明らかに失当である。

また、原告は、三〇年の経過により原告について死刑の執行がなされないことが自然であるとの社会的安定性が形成され、その執行をなすことは社会に混乱をもたらすものであるので、時効制度の立法趣旨からみても、時効が完成すると解すべきである旨主張する。

しかしながら、刑の時効制度が設けられた趣旨は、国家の刑罰権が行使されないまま一定の期間が経過することによって、通常、社会において一定の事実上の秩序が形成され、右期間経過後においてなお国家が刑罰権を行使して右の秩序を破壊することはかえって国家社会の利益に反する結果になることから、むしろこれを尊重し国家の刑罰権の行使を許さないとすることにある。

ところで、本件の場合においては、原告は、拘置されることによって、一貫して死刑の執行を受けるべき者として取り扱われてきたのであって、拘置がなされている間に同人をめぐって形成されてきた種々の社会的関係は、いずれも同人が死刑の執行を受けるべき者であることを当然の前提としているものであり、同人につき、死刑を執行したとしても何ら社会の秩序を乱すこととなるものではなく、かえって、時効の成立を認めた場合にこそ、現に同人につき死刑を執行することを前提として拘置が行われることにより国家の刑罰権が行使されているという状態を覆し、その状態の上に形成された秩序を乱す結果となるものといわなければならない。

したがって、原告の主張するような社会的安定性が形成されるいわれはなく、また、死刑の執行をなすことが社会に混乱をもたらすものでないことも明白である。

(三) 刑の時効の停止との関係

また、原告は、時効が完成すると解すべき理由の一つとして、拘置が刑法三三条の時効進行の停止事由として規定されていない旨主張するが、同条は、確定裁判の執行が法令により正当に猶予され、又は停止されたときには、裁判の執行がなされなくても、時効が進行するものではないという当然の事理を明らかにしたにとどまり、確定裁判の執行がなされない場合に関する規定であって、刑法が確定裁判の執行としての拘置になんら触れるところがないのは、前述したところからむしろ当然である。

更に、原告は、拘置が行われている間は時効は進行しないとの解釈をとったときは、死刑については刑法三三条の規定により時効の進行が停止される場合がなくなるので不当である旨主張するが、死刑の確定裁判を受けた者につき、絞首及び拘置の執行の双方が停止されれば、その者については法令により当該確定裁判の執行が停止されるものであって、このような場合には同条の規定が適用されることはいうまでもなく、右批判は失当である(なお、絞首及び拘置の執行の双方が停止される場合があることは、いわゆる免田事件、財田川事件及び松山事件の例に徴し、明らかである。)。

(四) 逃亡者との均衡

原告は、本件の場合に時効の完成を認めなければ逃亡している者との間に不平等を生ずるというが、現に刑罰権の行使を受けている者とそうでない者との間において、法的な取扱いに差があることは当然である。

即ち、刑の時効制度が設けられた趣旨は、前述したように国家の刑罰権が行使されないまま一定の期間が経過することによって、通常、社会において一定の事実上の秩序が形成され、右期間経過後においてなお国家が刑罰権を行使して右の秩序を破壊することは、かえって国家社会の利益に反する結果になることから、むしろこれを尊重し国家の刑罰権の行使を許さないとすることにあるところ、原告は、死刑の確定裁判の執行として拘置されることによって、現に国家の刑罰権の行使を受け、一貫して死刑の執行を受けるべき者として取り扱われてきたのであって、拘置がなされている間に同人をめぐって形成されてきた種々の社会的関係は、いずれも同人が死刑の執行を受けるべき者であることを当然の前提としているものであり、このように現に死刑の確定裁判の執行として拘置を受けている者とそうでない者とではその法的地位を異にし、したがって、また、これをめぐって形成される社会的関係が異なるものであることも明白であって、前述の刑の時効制度の趣旨、目的に照らせば、同制度の適用上差の生ずることはけだし当然のことであり、何ら異とするに足らず、両者を同一視することこそ時効制度の本質に反する議論といわなければならない。

(五) 残虐刑の禁止との関係

原告は、時効が完成するとする論拠の一つとして、仮に時効が完成しないとすれば、原告を三〇年間にわたり死の恐怖の下に拘置した上で死刑を執行することとなる点において残虐な刑罰を禁止した憲法三六条に違反することとなり、また、死刑に加えて三〇年の禁錮刑を科す結果となる点において罪刑法定主義に反することとなり、不当である旨主張する。

右主張は、結局、国家は死刑の裁判が確定した者については速やかに死刑を執行すべきであるとする主張につながるものというべきところ、死刑の裁判が確定すれば、これを尊重する見地から合理的な期間内に死刑の執行をなすべきことはもとよりであるものの、死刑が人にとって最も基本的に重要なものであるところの生命を奪う刑罰であることにかんがみれば、その執行を行うに当たっては、特に慎重を期する必要があることはいうまでもないことであって、このことが、また、法の要請であることは、旧刑事訴訟法が死刑の執行命令を発すべき期間について特段の規定を設けることなく、同命令の発出の時期を司法大臣の裁量にゆだねていたことや、現行刑事訴訟法四七五条二項が訓示規定として法務大臣の死刑の執行命令は裁判確定後六か月以内になすべき旨を定めながらも、再審請求等の手続の行われている期間は右六か月の期間に算入しないこととしていることからもうかがえるところである。したがって、死刑の執行の決定に慎重を期した結果、拘置が長期にわたって行われることになったとしても、それは生命を最大限尊重することに伴うやむを得ない結果であって、何ら不当のそしりを受けるべきものではない。

これを本件についてみると、原告に関しては、死刑の確定裁判に対し、別紙①再審請求状況調べ記載のとおり、原告から、昭和三〇年六月二二日の第一次再審請求以来同五六年一月二〇日の請求に至るまでの間、実に一七回にわたって再審請求がなされ、また、これら再審請求と併行し、別紙②恩赦出願状況調べ記載のとおり、原告から、同三七年一二月六日の第一回出願以来同六〇年二月一四日の出願に至るまでの間、五回にわたって、恩赦の出願がなされている状況にある(右再審請求及び恩赦出願の結果、その手続の行われている期間を除く右死刑判決確定後の経過期間はわずかに八二日間にすぎない。別紙③再審請求及び恩赦出願期間調べ参照)。原告については、前記刑事訴訟法四七五条二項の規定の適用はないものの、右再審の請求及び恩赦の出願に対しては、これまで、裁判所及び中央更生保護審査会において慎重な審議が行われてきており、法務大臣においては、以上のような事情をも考慮して、人道的立場から死刑の執行を今日まで差し控えてきたにすぎないものであって、このような経緯にかんがみるときは、原告が裁判確定後三〇年間拘置されてきたからといって、そのことによって、同人に不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰(最高裁判所昭和二三年六月三〇日判決刑集二巻七号七七七頁参照)を科することとなるものとはとうていいえず、また、死刑のほかに三〇年の禁錮刑を科したこととなるものでもないことはいうまでもない。

(六) 刑の時効の中断との関係

なお原告は、本件について、刑法三四条一項により時効が中断されるかどうかを論じ、同条は逃亡中の死刑確定者が逮捕された場合に関する規定である上、その逮捕には同法一一条二項の拘置は含まれないので、拘置が行われているからといって時効が中断しているものではない旨主張していることにかんがみ、この点についての被告の見解を明らかにしておく。

拘置が行われている間は、時効が中断され続けているという見解については、被告は、前述のように、確定裁判の執行として拘置が行われている以上、時効は進行しない旨主張するものであるから、もともと時効の中断事由の有無を論ずるまでもないとするものであり、その意味において、拘置が行われている間は時効が中断し続けているとする見解をとるものではない。

しかし、仮に、時効の中断事由となり得るかという観点から同法一一条二項の拘置を考察するならば、元来、時効の中断を認める趣旨は、国家の刑罰権発動の意思が具体的に表示された場合に、そのことによってそれまでの時効の進行の効果を消滅させることにあるところ、拘置が確定裁判の執行として行われる以上、それは、右の刑罰権発動の意思の具体的な表示である身体の拘束の実施であることはもとよりであって、同法三四条一項が単に確定裁判の執行の準備行為である収監状による身体の拘束にすら時効中断の効力を認めていることからしても、右のような拘置を行うことが時効の中断事由たり得ることは当然の理であり、このことは、また、死刑の確定裁判を受けた者が身体の拘束を受けていない場合に、任意の呼出に応ずるなどして、収監状による身体の拘束を受けないまま、直ちにその者につき拘置が行われれば、それまで進行していた時効が中断することは何人も疑うところでないことからも明らかである。その意味で、拘置は、時効の中断との関係でいうならば、同法三四条一項に規定する中断事由である逮捕に該当し得るものであることは明らかである上、拘置は、収監状等による身体の拘束と異なり、もともと継続的な身体の拘束であるから、右のような意思の継続的な表示にほかならず、その性質において継続的な時効の中断事由というべきであるし、また、一面からいえばその実質において逮捕が継続的に行われている状態ともいい得るものである。したがって、拘置の行われている間は時効を中断するに足りる事由が存し、時効は常にその進行を妨げられている状態にあるとする見解も十分に成立し得るばかりでなく、これを目して類推解釈ないし拡張解釈ということは当たらないというべきである。

2  以上からすれば、原告に対しては、刑の時効が成立する余地はなく、同人の拘束は、確定裁判の執行としてなされており、法律上正当な手続に基づいていることは明らかである。

このことは、原告ほか一名から申し立てられた東京地方裁判所昭和六〇年(人)第二号・第三号人身保護請求事件についての東京地方裁判所昭和六〇年五月三〇日決定(判例時報一一五二号二六頁)が「死刑の確定裁判を受けた者が刑法一一条二項の規定により死刑の執行に至るまで拘置されている場合には、死刑の時効は進行せず、したがって、そのような状態のまま三〇年が経過しても、死刑の時効は完成しない」として請求者らの主張を退け、さらに、右人身保護請求事件の特別抗告審において、最高裁判所昭和六〇年七月一九日第一小法廷決定(甲第四〇号証)が、右原審の判断を正当として是認していることに徴しても明らかである。

以上のとおりであって、原告の本訴請求は、その前提において理由のないことが明白であり、直ちに棄却されるべきである。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1及び同2の(一)、(二)の事実は当事者間に争いがない。

二  同2の(三)、(四)において、原告は、昭和六〇年五月六日の経過によって原告に対する死刑の時効が完成したのであるから、同月七日以降の原告の身柄拘束は違法であるとして、右時効完成の事由を縷々主張するのに対し、被告は、死刑を言い渡した確定裁判の執行として拘置されてきた者については、死刑の時効は進行しないのであるから、原告の拘束は刑法一一条二項に基づく、法律上正当な手続による拘束であると反論する。

そこで以下、右主張の当否につき順次判断を加えて行くことにする。

1  刑法三二条にいう「其執行」の意味について

(一)  原告は、「刑ノ言渡ノ執行」という文言は、日本語の用法に存在しないものであり、もちろん刑法典にも存在しない文言であるから同一法典における同一文言の統一的解釈の原則からいっても、「其執行」は、「刑ノ執行」と解さざるを得ないと主張する(四(1)の(ア)、(イ))。

しかしながら、被告が指摘するように、「言渡」という文言が、単なる裁判宣告の動作又は行為を指すのではなく、「言い渡された裁判」を意味するものとして用いられる例は刑法典中少なからず存在するのであって、刑法三二条にいう「刑ノ言渡確定シタル後」という文言が右「確定」の語と相俟って「刑を言い渡した裁判が確定した後」の意味で用いられていると解すべきこともまた被告の主張するとおりである。

そして、「刑ノ言渡」という文言が一個の名詞句をなしていることを考えれば、「其執行」が、右名詞句を受け「刑ノ言渡ノ執行」即ち「刑を言い渡した裁判の執行」との意味で用いられていると解することは十分可能であり、また合理的且つ妥当なものということができる。

したがって、刑法三二条の文理解釈から当然に「其執行」が「刑の執行」の意味に解されなければならないとする原告の主張にはとうてい左袒し難いものといわざるを得ない。

(二)  次に、原告は、仮に刑法三二条にいう「基執行」が「刑ノ言渡ノ執行」を意味すると仮定しても、刑法一一条二項の拘置は、同条項によって創設的に認められた処遇であって、「死刑ノ言渡ノ執行」としてなされているものではないから、やはり「其執行」は「死刑ノ執行」と解すべきことになると主張する((四)(1)の(ウ))。

そこで、刑法一一条二項の拘置の性質について考えてみるに、たしかにこの拘置は固有の意味での刑そのものではなく、またもちろん未決勾留でもない。

結局、右の拘置は、死刑の執行行為に必然的に付随する前置手続として刑法によって定められた一種独特の拘禁であると解すべきである。

しかしながら、斯く解したからといって原告の右主張が肯認されるものではなく、そもそも右拘置は、死刑を言い渡した裁判の確定によってはじめて実現されるものであり、また、死刑の執行が停止されても、死刑の確定判決がその効力を失わない限り拘置は継続してなされ得ることを考えるならば、右の拘置が、死刑を言い渡した確定裁判自体の効力として執行されるもの、即ち、刑法一一条二項の拘置の手続は、死刑を言い渡した裁判が確定したことにより、その裁判の執行としてなされるものであること明らかであるといわざるを得ない。

したがって、同条項にいう「其執行」が「刑ノ言渡ノ執行」を指すものと解さざるを得ない以上、死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされている刑法一一条二項所定の拘置が継続している限り、時効はそもそも進行しないことになるものというべきである。

(三)  なお、原告は、刑法三二条の「其執行」を「刑ノ言渡ノ執行」と解すると、死刑と拘置を同一視することになり、その結果多くの不合理が生ずると主張する((四)(1)の(エ))。

しかしながら、同条の「其執行」を「刑ノ言渡ノ執行」と解するとしても、それは拘置と死刑の執行が、いずれも死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされるという限りにおいて等しいものであるというにとどまり、その余の内容や性質においてまで拘置と死刑の執行を同一視するものではないことは多言を要しないところであるから、原告の右主張は、その前提を異にするものであって採用することができない。

2  時効制度の趣旨からの考察

(一)  刑の時効制度が設けられ、時効によって刑罰権が消滅するとされる理由については、年月の経過によって犯人の改善が推測されるとする改善推測説や、長期間の逃避生活によって犯人は既に刑罰に比すべき十分な苦痛を受けているとする苦痛説ないし準受刑説なども存するが、必ずしもこれらが全ての場合に妥当するものではなく、右各見解だけで時効制度の存在意義を説明するのは困難である。

そもそも時効制度一般の根底には、時間の経過に伴って形成された社会的な事実関係、事実状態を一つの秩序とみて、この秩序を尊重し覆さないことが社会的安定に資するという理念が厳然として存在していることは否定し得ないところであり、刑の時効についてもこの理念を基底として考えるのが至当である。

即ち、犯人が国家の刑罰権の行使を受けないまま社会生活を積み重ねて行くことにより、犯人にとっても一般社会人と同様の社会的事実関係が作成されて行くのであり、そうすると犯人に対する社会的な規範感情も和らぎ、やがては必ずしも現実的な処罰を求めないまでになるのであって、このようにして一定期間の経過によって形成されてきた社会的な事実関係、事実状態を覆し、破壊してまで犯人を処罰することは、一般的社会秩序の維持という法目的に沿うものではなく、むしろ、形成された社会的な事実関係、事実状態を一つの社会秩序とみてこの秩序を尊重することの方が法の目的にかなうというところに、刑の時効制度が設けられた主眼が存するというべきである。

(二)  そこで、右の如き時効制度の趣旨を前提として、刑法一一条二項の拘置を受けている者に対し死刑の時効が進行するか否かを検討してみるならば、以下に述べる理由により、否定せざるを得ない。

即ち、第一に、刑法一一条二項の拘置を受けてきた者に対して形成されてきた社会的事実関係は、あくまで、死刑の執行を受けるべき者として隔離され拘禁されてきた状態での生活関係にほかならず、このような者に対しては、覆し、破壊することが妥当でないとされる一般社会生活上の事実関係、事実状態というものはそもそも存しないのである。

そして第二に、同条項によって拘置されている者は、その期間、一貫して死刑の執行を受けるべき者として取り扱われてきており、一般社会もそのような状態にあるものとして認識してきたのであって、一般社会において生活してきた者と比べるならば、社会的な規範感情において、質的、量的いずれの面においても大きな差異が存するといわざるを得ない。

更に第三に、もし拘置されてきた者を刑の時効によって一般社会に釈放することになれば、それは拘置されてきた者をめぐって形成されてきた社会的な事実関係と異なる事実関係を新たに創設せしめることになるのであって、従前形成されてきた秩序を尊重するという前述の時効制度の趣旨とは相容れない結果をもたらすことになるのである。

(三)  以上よりするならば、刑法一一条二項により身柄を拘束されている者について死刑の時効の進行、完成を認めることは、刑の時効の制度趣旨に合致せず、許されないものというべきである。

3  刑の時効の停止との関係

(一)  原告は、刑の時効の停止(刑法三三条)の制度が設けられた趣旨は、法律上刑の執行が許されない場合には中断が不可能なことから時効の進行を阻止する必要があるということで設けられたものであることから、時効は、刑の執行が許されない場合に停止する反面刑の執行が許される場合には時効は停止せずに進行すると主張する。

(二)  たしかに、刑の時効の停止は原告主張のような趣旨で設けられた制度であり、また、刑の執行が許されない場合に限って、時効が停止することになることもまた原告の主張するとおりである。

しかしながら、刑法三三条は、前掲のような趣旨により、所定の停止事由が存在する場合には時効の進行が停止されることを規定したにとどまるものであって、それ以上に、停止事由が存在しない限りはいかなる場合であっても時効は進行することまで宣明したものではなく、ましてや刑の執行が許される場合には、いかなる場合であっても時効が進行することまで宣明したものではない。

たしかに、刑の時効というものは進行しているか停止しているかのいずれかしか存在しないという二者択一の関係にあるのであれば、原告の主張するような反対解釈もまた成り立ち得るかもしれないが、刑の時効には原告も自認するように中断も存すれば、当初より進行していないという場合も存するのである。

したがって、刑の時効の停止を定めた規定が存在するからといってこれを前提とする原告の右反対解釈が成立する旨の主張は採用することができない。

4  逃亡者との均衡

(一)  原告は、刑の確定後に逃亡した者と比較し、拘置されていた者には連日死の恐怖があり、行動の自由も束縛されていたのであるから、逃亡者が三〇年で時効の恩恵を享受できるのに比べ拘置されている者に時効の成立が認められないのは不公平であると主張する。

(二)  しかしながら、右の如き拘禁者と逃亡者との間に生ずる差異はいわば時効制度に不可避的に内在するものなのであって、時効という制度の存在自体を是認する以上、これを甘受せざるを得ないものなのである。

即ち、たとえば懲役刑を言い渡した裁判が確定した後に逃亡した者は、一般社会において自由を享受しつつ、時効期間が経過すれば刑の執行の免除を受けられるのに対し、裁判確定後刑の執行を受けている者は、監獄に拘置され定役に服するという点において自由を奪われた生活を余儀なくされたうえ、遂に時効の恩恵を享受することなく終わるのである。

これは、そもそも時効の制度が、本来法が是認すべきでない事実状態であっても、それが一定期間継続した場合には一つの秩序として法が認知しようとする考え方に基づくものであるために、本来法が是認すべきでない事実状態を継続してきた者と法が期待する事実状態を継続してきた者の間には差異が生じ、それが結果的には不公平と映ぜざるを得ない宿命を負っているからなのである。

もし、刑の時効の制度から不可避的に生ずる右の如き差異が許容し難いものであり、それによる不利益が、刑の時効制度の存在意義を陵駕するに至るものと社会が考えるならば、その際には、刑の時効制度自体を廃止する方向へと向かうべきなのであって、刑の時効制度の存在を是認する以上は、右の如き差異の存在もまた甘受せざるを得ないものというべきである。

(三)  したがって、逃亡者との間の差異を理由として、時効の完成を主張する原告の主張は、現行時効制度の存在を前提とする限り採用することができない。

5  残虐刑禁止との関係

(一)  原告は、もし時効が完成していないとするならば、昭和六〇年五月七日以降にも死刑を執行できることになるがそうすると三〇年間死の恐怖の下に拘置したうえで死刑を執行することになり、これは、憲法三六条が禁止している「残虐な刑罰」に該当すると主張する。

だが、そもそも、生命刑である死刑は、一度執行がなされたならば原状回復が不可能であることから、その執行に際しては他の刑の執行より一層慎重な判断が要求されるのであって、それだからこそ刑事訴訟法四七五条二項は、法務大臣が執行命令を出すべき期間を法定しながら、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされ、その手続が終了するまでの期間は右法定の期間に算入しないとして、旧刑事訴訟法五三八条と同様に死刑執行命令の発出に最大限の考慮を払っているのである。

したがって、一般に、たとえば再審請求や恩赦請求等がくり返された場合に、それを真摯に受けとめ慎重な検討をくり返すことは、決して法の期待に反するものではなく、その結果として死刑の言渡の裁判確定後三〇年を経過してしまったからといって、それだけで直ちに、その後の死刑執行が憲法三六条にいう「残虐な刑罰」に該当するということはできないと解すべきであり、このことは最高裁判所昭和二三年三月一二日大法廷判決(刑集二巻三号一九一頁、同三〇年四月六日大法廷判決(刑集九巻四号六六三頁)の趣旨に徴してみても明らかである。

(二)  仮に、原告の主張するように、死刑の確定裁判を受けた者に対し、長期の拘置を経たうえで死刑を執行することが「残虐な刑罰」に当たるということであれば、裁判確定後できる限り速かに死刑を執行する方が憲法の趣旨に合致するということにもなりかねないが、このような事態を招来するような結論は大いに疑問であること多言を要しない。

(三)  したがって、憲法三六条違反を前提とする原告の主張はこれを採用することができない。

6  罪刑法定主義との関係

原告は、三〇年の拘置の後に死刑を執行することは三〇年の禁錮刑を附加したにも等しいものであって、これは宣告刑以上の刑を執行することになり、罪刑法定主義に反すると主張するが、刑法一一条二項所定の拘置は死刑の執行行為に必然的に付随する不可避的な前置手続であって、死刑の執行に至るまで継続すべきものとして法定されているのであるから、三〇年の拘置の後に死刑を執行することになったとしてもそれが罪刑法定主義に反するものでないことは明らかである。

7  以上検討したように、刑の時効制度の趣旨その他の点に徴してみても、刑法三二条にいう「其執行」の「其」という文言は「刑ノ言渡」という名詞句を指し、したがって「其執行」とは、拘置をも含む、死刑を言い渡した確定裁判の執行を意味すると解するのが相当であって、これに反する原告の解釈は採用の限りではない。

したがって、死刑の確定裁判を受けた者が刑法一一条二項の規定により死刑の執行に至るまで拘置されている場合は死刑の時効は進行せず、結局そのような状態のまま三〇年が経過しても時効は完成しないというべきである。

(なお、原告は時効の中断事由が存しないことも主張しているが、本件においてはそもそも死刑の時効が進行しないのであり、時効の中断事由の存否は時効が進行していることを前提としてはじめて問題となるものであるから、これについて判断するまでもなく原告の主張は理由がない。)

三  結論

以上の次第であるから、その余の点については判断するまでもなく原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡邊昭 裁判官 澤田英雄 定塚誠)

〈以下省略〉

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